恋は遙かに綺羅星のごとく

        Euph.作


皇紀弐千六百八拾年 拾月 拾六日 金曜日
土岐邸

「――と、言うわけで叔父様、ご協力願いたいのです」

 口元に豊かなヒゲを湛えた四十前半の男性が葉巻を揺らしていた。だれ? って、オレの父さんだよ。ゲーム会社でシナリオライターをやってる父さん。そしてここは父さんの書斎だ。いま、オレたちはここで父さんにお願いをしているんだ。そう、先ほどから琉璃夏が父さんに向かって何度も何度も繰り返し頭を下げている。そして、琉璃夏が父さんに許可を願うこの言葉を口にする度に、オレの足を踏みつけるものだから、足の甲が凄く痛いんだ。うっく! 畜生! 今回も琉璃夏に促され、盲目的にオレは言葉を続けるしかないのか!?
「父さん、お願いだ。学園祭――今度の高専祭で発表したいんだよ!」
「別に構わんよ。――うん、構わない。――ただ――」
「ただ?」
「既に完成している現行のシナリオ部分には手をつけるな。いいな? 彼方。――それが条件だ」
 やった! とばかりに琉璃夏が飛び上がって喜んだ!
「やった、さすが叔父さま、素敵です!」
 琉璃夏の台詞が気持ち悪い。……いつもと正反対に違うこの言動、どうにかならないかな。
 オレも父さんに礼を言うか。
「ありがとう父さん」
「ま、頑張れよ? データは、お前のデスクトップに転送しておくから好きに使うと良い」

 ◇ ◇ ◇

オレたちは書斎を出て行くとき、タバコの煙の匂いと、父さんの呟きが聞こえたような気がした。
「もうアレから二十年、いや、もっとか? ――ユリ。――ああ、何もかもが懐かしい」

 ◇ ◇ ◇

皇紀弐千六百八拾年 拾月 拾七日 土曜日
土岐邸

 朝の食堂を包んでいた優しく麗しい空気が、妹のその一言で壊滅した。
「お兄ちゃん、大変よ! いくらお休みだって言っても、もう八時! 私お腹がすいたの! おなかと背中がくっついちゃう! 早く食べさせてくれないと酷い目にあわせるんだから!」
 沙織。赤い寝巻き姿の中学三年になる妹の沙織が、肩で切りそろえた髪を払いながらオレに酷い言葉を浴びせてきた。
「トーストなら自分で焼け。焼いたらジャムは自分で塗るんだ。――もちろん、自分の手で食うんだぞ?」
「嫌」
 我が妹ながら意味がわからない。嫌、ってどういうことなのだろうか。
「オレはもう行く。琉璃夏が来る前に家を出ないといけない。今日はそんな予感がしてならないんだ」
「意味わかんない」
「飯ぐらい自分で作って食べろ!」
「嫌だ。作ってくれなきゃ、食べさせてくれなきゃ嫌! それに私、まだ寝巻きから着替えてないもの! 着替えさせて!」
 沙織、お前は何を言っているんだ。
「自分でやれ!」
「嫌!」
 毎度の事ながら意味がわからない。言っていることの八割は意味不明だが、今日は輪をかけて酷すぎる。オレは無視して玄関に足を向ける。――すると。
「とにかくまだ行っちゃダメ!」
 すかさず沙織が両手を広げてオレの前に立ち塞がる。その顔は無意味に必死だった。
 言い出したら聞かない。でも、ここで折れるわけには行かない。ここで折れたら、きっと次はとんでもない要求が待っているんだ。
「言ったはずだ、オレは琉璃夏より先に――」
「ダメ! お兄ちゃんは琉璃夏姉の下僕なんだから、そんな勝手な行動したらダメ! 私が許さない!」
 なに?
 なんだって!? まさか、これは遅滞戦術!?
「沙織、お前ワザと意味不明なこと言って――!? ていうか、お前、琉璃夏の回し者だったのか!?」
 沙織から必死の表情が消える。そして浮かぶのは琉璃夏そっくりの邪悪な笑みだった。
「ばれた? でも、もう遅いかも。まったく鈍いんだから。お兄ちゃんって」

 ◇ ◇ ◇

 オレが必死にシューズをはこうとして急いでいたときだった。
 ドンドン! ドンドン!
 激しく玄関ドアが叩かれ、凄い音を立てていた。
 お客さん? 借金取り? うるさい新聞屋? 全部違う。たぶん間違いなく、あれはオレの幼馴染である琉璃夏の仕業だ。驚愕すべきことだが琉璃夏はオレの思考を読めるらしい。そうとも。恐るべきことに琉璃夏はオレの考えを先読みして早めに家を出て来たに違いない。オレが浅はかだったのか? 畜生、沙織の奴がああもオレの邪魔をしなければ!
「開けろ! チェーンを切られたいか!? ほら、さっさとチェーンを外せ、カナタ!!」
冷たい視線がドア越しにシューズを履くオレの頭に注いでいるのがわかる。わかるけど……。
「ほう? カナタ。貴様、私の要求に答えないばかりか返事も無しとは。そうか。私と目を合わせることも断ると言うのだな?」
 シューズは履いた。だけど頭を上げることが出来ない……琉璃夏、きっと怒ってる!
「カナタ。悪い事は言わない。早くここをあけるんだ。それが貴様とご家族のためだ」
 家族は関係ないだろ!
「カナタ。こんな小話を知っているか? 優しく麗しい幼馴染の美少女が毎朝迎えに来てやっているのに、それに感謝しないばかりか無下にした男が、ある朝。埠頭に浮かんでいた話だ――」
 ――!! わかった、わかったから!
「ごめん、ごめんよ、琉璃夏。オレはそんなつもりじゃ――」
「『オレ』!?」
 琉璃夏の声がさらに硬くなる。こ、怖い、怖いよ、琉璃夏! 畜生、毎朝毎朝惨めになる。これだから朝から琉璃夏と顔を合わせたくないんだ。
「あ、ぼ、ぼぼぼぼボク、そんなつもりじゃなかったんだ、琉璃夏が来る前にチェーンを外そうとしたんだ! でも急にドアをガンガン叩く音がして! ボクとっても怖かったんだ!」
「ほぅ? それは、全て私が悪いと言うのだな? 貴様は」
「い、いや、その別に!?」
「まぁいい。もう登校準備は出来ているようだな。さぁ、行くぞ、カナタ」
「う、うん!」
 琉璃夏が一歩引いて急に優しくなる。ここが落としどころ、といういつもの合図だ。オレ――いや、ボクは素直に従ったよ。