恋は遙かに綺羅星のごとく
Euph.作
皇紀弐千六百八拾年 拾月 弐拾日 火曜日
お台場 船の科学館
「ではな! カナタ、琉璃夏! 名残惜しいが、また明日だ!」
八千代は埠頭の方に去って行く。いつものように。
今日も船の科学館でボクらは八千代と別れた。
「……八千代ってホントどこに帰ってるんだろう?」
「なんだ? カナタ。ストーカーの予行演習でもするのか? ――聞き捨てならんな。風紀委員としてはそのような邪な行動を起そうと企む輩をみすみす見逃すわけにはいかんな」
街灯越しに見る琉璃夏の目が怪しい光を湛え始めているのを見て、ボクは怖くなった。
「違う、違うよ! ホント違うって! ボク、欠片もそんなこと考えてないから!」
ボクの必死の訴えが届いたのか、琉璃夏は肩を竦ませて言う。
「フン、命拾いしたな――カナタ」
海に目をやると、江戸湾に数日前から停泊中である原子力戦艦大和の巨人の如き艦影が、人口一千五百万都市である江戸の圧倒的な街の光を背景にして、今宵も静かに聳え立っていた。
◇ ◇ ◇
皇紀弐千六百八拾年 拾月 弐拾参日 金曜日
国立大江戸特別芸能高等専門学校 文芸部部室
「カナタ。自分は今猛烈に感動している。――この感動をそなたと分かち合いたいが、これほどまでに深い想いを表現する術を私は知らぬ。許せ、許して欲しい!! そなたに感謝の念を正確に伝えらこの八千代の不徳、許してくれ!」
――く、苦しい! 苦しいって!? オレは八千代の豪勢な胸に思いっきり抱きしめられていた。ふんわりと柔らかくも芳しい。でも、そんな桃源郷めいたことを考えることができたのもほんの数秒の間だけ。後はもう、ただただ苦しい。ぐいぐいと八千代の両の細腕に締め上げられて、オレはもう息が出来なくて窒息しそうだった。
「カナタ! そなたは最高だ! 愛しているぞ! 自分はもう死んでも良い!」
オレが八千代の感極まった言葉の意味するところに耳を疑ったとき、それはやって来た。
そう。それはやってきた――。
何かが燃える音がする。唸りを上げて、風を切り裂く音がする。
「貴様たち――貴様たちはそこでなにをしている!?」
それは煉獄の炎をも凍らすほどの冷気に満ち満ちた声だった。――オレは覚悟した。恐らくオレは明日、存在しえまい。
なのに。なのに八千代が能天気かつ朗らかに、オレを胸に抱き締めたまま空気も読まずに言うんだよ!
「琉璃夏! カナタがついにシナリオを書き上げたのだ! 実に素晴らしい内容だ! そなたも早く目を通せ! これが抱き締めずにいられるか!」
◇ ◇ ◇
――痛い。痛みだけがボクを苛む。なにかが僕の頬に触れた。とても暖かくて、優しい何か。――ああ、ここって天国なのかもな――。そんなことを思う。そう、このあと、夢のような日々が過ぎて行ったよ。学園祭――高専祭の予感と期待に学校中が包まれ始めた時間。琉璃夏と八千代と共に過ごした日々が……。
◇ ◇ ◇
皇紀弐千六百八拾年 拾月 弐拾四日 土曜日
国立大江戸特別芸能高等専門学校 文芸部部室
八千代の叱責の声と琉璃夏のアニメ声が聞こえる。
「だめだ。もっとそこは情感を出して頼む。3・2・1」
「『ううん。トバリは信じられる。信じるよ。だって私を助けてくれたもの――二度も!』」「琉璃夏。そなたらしくもない。全然ダメ。やり直し! 3・2・1」
「『ううん。トバリは信じられる。信じるよ。だって私を助けてくれたもの――二度も!』」「はぁ。頼む! もっと真摯に透明感を出して乙女チックに! 3・2・1」
お、乙女チック……琉璃夏、泣いていいぞ。
「『ううん。トバリは信じられる。信じるよ。だって私を助けてくれたもの――二度も!』」「琉璃夏。そなたは元々アニメ声としか言いようのない美声なのだから、その尖ったアクセントを何とかしてくれ。では、3・2・1」
「『ううん。トバリは信じられる。信じるよ。だって私を助けてくれたもの――二度も!』」「話にならん! もっと萌え萌えにだ!!」
ブチ。あ。なにか聞こえた。
「無理言うなぁ! 泣くぞ、マジ泣きするぞ!!」
琉璃夏は涙目になったが、八千代は決して解放しなかった。当時の部誌によると、日が沈んでも収録はつづいたと言う。
◇ ◇ ◇
皇紀弐千六百八拾年 拾月 弐拾六日 月曜日
国立大江戸特別芸能高等専門学校 文芸部部室
「改行、改行、ここも改行。んでもって、ここにエフェクト。――エフェクトはこの場所で構わないよな、八千代?」
「ああ、その位置が最良だろう。時間はコンマ八秒だ」
「了解だ。――改行、改行、またまた改行。ここは紛らわしいからコメを入れて、っと」
――ががががががが、だだだだだだだだ、ガチガチガチガチ!
キーボードが古いのか。それとも琉璃夏がただの怪力女であるだけなのか。琉璃夏の打ち込みはいつ見ても鬼気迫るものがあった。
「琉璃夏は凄まじいな。自分は今までこれほどの者に出合った事がない」
「そうだと思うよ? 琉璃夏は、いつだってなんだって本気、しかも全力だからね。だから、ほら――」
ガタン! 凄い音がした。琉璃夏が椅子ごと背後に倒れたのだ。
「疲れたぞ。いや、疲れた。と、言うわけでカナタ。買って来たドリンクを寄越せ」」
「はいはい。いつものでだったよね?」
「今日は蜂蜜五パーセント。――そんな気分だ」
「無いって! 琉璃夏、そういう細かな注文は朝言えよ!」
「気の利かない奴だな、貴様は。まぁ仕方がない。あるものを寄越せ」
オレはバッグから瓶を取り出すと、琉璃夏に投げようとする。
「待て。貴様は一口毒見をしてから寄越せ」
「なんだよそれ! 信じてないな――!」
オレが言われるまま、一口飲んでから琉璃夏に渡した。――琉璃夏は即座にそれを体に流し込む――。で、空き瓶を僕に投げつけた!
「な、なにするんだよ! 毒なんかは入ってなかっただろ!?」
「フン、喜べ、カナタ。この私が貴様と間接キスしてやったぞ」
「!?」
「カナタ……そ、そなた、始めからその思惑を持ってであのような所業を……」
八千代の体がワナワナと震えていた。と、違う、違うんだ八千代!!
「八千代、昨日の貸しはこれでチャラにしておいてやる」
「う、琉璃夏、そなた汚いぞ!」
「貴様は事あるごとに『好きだ』『愛している』とカナタに言っているではないか! 貴様とカナタは『千代の絆』とやらで結ばれた仲なのであろう? こんなくだらない間接キスごときで揺るぐごとき絆ではあるまいに。ま、なんだ。悔しかったら貴様も策を練ることだ」
「むむむ……一理ある。むむむ……そなたも外様の雄、毛利の者であったな……先祖の謀略の教えをよくよく学んでおると見える……失念しておった……」
八千代はなにやら考え込んでしまった。
琉璃夏は再び打ち込みを再開していて。――オレはとりあえず、助かったらしい。
◇ ◇ ◇
――ががががががが、だだだだだだだだ、ガチガチガチガチ!
「ああ、イライラする、何度同じ単純作業を繰り返せば良いのだ! ええい! カナタ! ポテチだ、薄塩ポテチを持って来い! ――く! なんだこれは! おのれ、ここもまた繰り替えしなのか? また一行目から!? やってられぬわ! って、ふ、フリーズ、だと?! これだからこの屑OSは! ぶち殺すぞゲイツ!!」
琉璃夏が机を何度も何度も拳で殴っている。
オレと八千代は顔を見合わせ震えていた。怖い。怖いよ琉璃夏――。怖いんだけど――。
「カナタ……あれは、あの存在は何なのだ……」
「わからない、わからないよ八千代……」
!? 琉璃夏が突如振り返る。その目は気のせいか赤く輝いて見えた。
「ひっ!?」
「うっ!?」
オレと八千代は再び震えだす。
完全に据わっている琉璃夏の目。
「ポテチは――どうした?」
琉璃夏の凍てついた言葉。どす黒いオーラが見える。
「は、はい! ここに、ここにありますです!」
「ご苦労」
「はい!」
バリボリ、バリボリ……。無言で受け取るなり鷲掴みで食い始める琉璃夏。
「セーブセーブどこでもセーブ……♪」
琉璃夏が変な歌を歌い始めたんだが……。怖い。怖いよ琉璃夏――。ホントホント怖いんだけど――。
◇ ◇ ◇
皇紀弐千六百八拾年 拾月 参拾日 金曜日
国立大江戸特別芸能高等専門学校 文芸部部室
――α版、完成。とりあえず動くようにはなった。だがコレは、序曲に過ぎない。
◇ ◇ ◇
皇紀弐千六百八拾年 拾壱月 壱日 日曜日
国立大江戸特別芸能高等専門学校 文芸部部室
「ぽちっとな」
おかしい。起動しない。
「始まらないぞ?」
オレと琉璃夏はお互い顔を見合わせた。
「バグなんだな? また、バグなんだな?」
オレは確認する。
「他になにが考えられる。何度も言わせるな」
「そうだよな――」
次の瞬間、琉璃夏が頭を掻き毟って暴れ出す。両の拳を机に力の限り叩き付けて叫ぶ女がいる。
「うがーーーー! 何故だ、何故なのだ!!」
「琉璃夏落ち着け、落ち着いてってば!」
なんとか取り押さえて椅子に座らせては見たものの、荒い息を繰り返す琉璃夏だった。
「琉璃夏、間に合うよな? 高専祭は明日から、本番は二日目の明後日、そして明日はクラスの応援に行かなきゃで、作業なんてこれっぽっちも出来ないんだぞ――!?」
「大丈夫……なのか? 本当に大丈夫なのだな? 琉璃夏――」
八千代が今にも泣き出しそうだ。沈黙が支配するこの空間――。やがて響くのはこんな奇声だった。
「あはは、あはははは! おのれ愚民ども、何も生み出さない無産主義の豚どもめ。いつかこの手で必ず全てを焼き払ってくれよう!!」
大丈夫か? 琉璃夏の奴。
八千代はただただ心配そうにオレの顔を見続けるのだった。
◇ ◇ ◇
最近、オレもこのラーメンを炊く腕がかなり上手になってきたような気がする。今日は家から持って来ていた味付き卵とほうれん草を添えてみた。二人にはおおむね好評のようで満足かな。
「ああ、今日もラーメンが美味い。やはりこの味。棒ラーメンは最高だ」
「琉璃夏、本気で言ってる?」
「自分はこれ、好きだぞ? 今まで食べたこともない品物だからな」
八千代、君の意見は参考にならないから。
「本当の事を言ってほしいのか? カナタは」
琉璃夏の黒い隈を宿した目が細まりオレを射る。そして聞くに堪えない言葉が投げつけられた。
「毎日毎日一日一食も二食もクソ不味くて食っていられるか! たまには別のもの食わせろボケ! こんな○○ラーメン人間様の食い物じゃねぇ!!」
八千代が暴言を吐く琉璃花を呆然と見る。
「琉璃夏、どうしたのだ。そんなに興奮して」
「いや、健康で文化的な生活を送りたいと思っただけだ。気にしないでくれ」
「そうか。正直驚いたが、そなたが言うのであればそうなのであろうな」
「当然だ。私は正常だ」
どこが正常なんだ、琉璃夏よ。早急に何か手を打つか、急いで作品を完成させないと危険だ。絶対にまずいだろ。
◇ ◇ ◇
夕食後、三度作業に入った琉璃夏だったのだけど――。
「あは、あはははは。バグの場所がわからない、わからないの……ねえ、カナタ。私、がんばったよね。もう、ゴールしても良いよね……? お願い。もう、私……ああ、最期にあなたに逢いたかった。息が詰まるほど強く抱き締めて名前を呼んで欲しかっ……」
ガタン! 琉璃夏が椅子を蹴倒して突然立ち上がった。そしてその血走った目で窓を見据えて――。
「ああ、あれは何だ! ま、窓に! 窓に!」
「大丈夫か? どうしたんだよ琉璃夏」
「落ち着くがよいぞ。こういうときこそ心を平静にだな、おい、琉璃夏!?」
「私は正常だ! 何の問題もない!」
琉璃夏が大声で叫んだ。目の下にはくっきりと黒い隈があり、髪も振り乱れ、目が血走って――。明らかに普通じゃないぞ!
「大丈夫だ、私は、私は正常だ。ああ、大丈夫――!? あ、ああ、窓! 今度こそ窓に! あああ!」
足でももつれたのか、視線を窓に釘付けにしたままその場にへたり込んでしまった。オレも八千代も窓を見てみるものの、何もおかしなものは見えない。
琉璃夏は口をパクパクさせて何事か呟いている。
「”いる”、何か”いる”……」
「しっかりしろよ、琉璃夏! もうちょっとで完成なんだろ!?」
オレは琉璃夏を抱き起こす。って、――え? 琉璃夏がオレにしがみ付いて離れない。オレは邪悪な気配を感じた。見れば、――八千代の物言わぬ視線がオレに突き刺さっているではないか! ああ、八千代の視線が冷たい。
「カナタァ!」
「うぉわ!」
オレは急に暴れだした琉璃夏に逆に押し倒される。琉璃夏の目が怪しい。ますますもって普通じゃない! と、いうか琉璃夏、このオレの胸に座るマウントポジション、色々とヤバイだろ! !? ひっ……お、おい――今、瑠璃夏の舌なめずりを聞いたような気がする。
「ククク。カナタ、今宵こそは覚悟しろ――」
いま、何かとても邪悪な琉璃夏の台詞を聞いたような!? 琉璃夏の魔手がオレの首に伸びる! や、止めろ! ――そのときだった。
「この――ウツケ者!」
八千代が琉璃夏の脳天に鉄拳制裁を下す。八千代にしては珍しい。実力行使だと? 人類には聞き分けることが困難な陥没音が夜の部室に響いた。琉璃夏はそれを痛がる様子を見せる代わりに、その瞳に色を取り戻しつつフラフラと立ち上がる。
「あれ? カナタ、貴様私にそうまでして踏まれたかったのか?」
確かにいま、琉璃夏の右足はオレの胸を見事に踏んでいる。だけど、今はそれを指摘する場面じゃないだろ?
「あ、あはは。今、何時だ?」
時間を聞くなり琉璃夏がまた本気モードに入ったのは言うまでもない。
◇ ◇ ◇
「良かった……カナタ……生き延びることが出来たな……自分たち……」
「え?」
琉璃夏が大人しく作業に戻ったのを見た八千代がオレの背中にしな垂れかかる。八千代……。彼女も張っていた気が抜けたのだろう。そうか。八千代もギリギリのところだったんだな。
「大丈夫だ、八千代。もう心配ない。君が琉璃夏を正常に戻したんだよ」
「そうか。自分は役に立てたのだな……あのまま琉璃夏が壊れていくのかと思うと、とても怖かった。そんなのは絶対に嫌だった。琉璃夏は自分のことを友達と言ってくれたのだ。自分にもできることをやりたいと、必死だったんだ」
オレは背中に八千代の体温を感じつつ、その優しい台詞を聞いていた。
「うん、わかるかも」
「カナタは優しいな」
「そんなことないよ」
「謙遜する事はない。自分はカナタを信頼している。信じているのだ。そして同じように、琉璃夏もカナタのことを信じていると思う」
「うん」
「カナタ?」
「自分は本当にそなたの役に立てているか?」
「当たり前じゃないか」
「そうか。これからもここにいていいのだな? 自分は。そなたたちの邪魔ではないのだな?」
――え? どういう意味? そう、僅かな沈黙があったかもしれない。でも、オレは当然のことを言ったよ。
「当たり前じゃないか。オレたちは友達だって言ったばかりだろう?」
「そうだな。――友達だ」
気のせいか。八千代がオレに回していた両手に力を込めたような、そんな気がした。
◇ ◇ ◇
皇紀弐千六百八拾年 拾壱月 弐日 月曜日
国立大江戸特別芸能高等専門学校 文芸部部室
それは草木も眠る丑三時――。近所迷惑にも歓声が轟いた。
「出来たぞ! デバッグ終了だ!! もう、もう文句は言わせん、言わせんぞ!! 何度実行しても止まらない! デバッグ終了だ! 完成だ!!」
『好きです。ああ、あなたの事、この場所であなたが私を助けてくれたあの日から、ずっとずっと信じてた! あなたなら、なにがあっても、どんなに辛くても、負けないって! 私を助けてくれるって! 私、私ね、この島から連れ出してくれる人をずっとずっと待ってた!――この日が来るのを、本当に待ってたの! そして、それはトバリ。それはあなたなんだって。確信出来たの! だから――私、あなたを愛してる。愛してるわ。――私をあなたの傍に置いて欲しいの』
「くぅ、このユリの台詞。これを聴くまでどんなに長かったか! ――アーカイプには使われていない声優の台詞が山ほど入っていたからな。加工・合成しても違和感が無いな。この台詞も」
「やったな! カナタ!」
「!?」
琉璃夏かオレに飛びついた。琉璃夏のその、あからさまに目に毒な胸が思いっきり顔に押し付けられて――。
「なにをボーっと眺めている、八千代! 貴様もこっちに来ないか! こういうときに羽目を外さないで何時は羽目を外すんだ?」
琉璃夏が言うが早いか、背中に衝撃があった。
「!?」
そして後頭部に信じられないくらい柔らかいものがあたり、弾力を持って潰れる感触が。八千代がオレに飛びついたらしいのだけど。
「そななたちは最高だ。――ああ、自分はここに来て、そなたたちに出会えて、本当の本当に幸せだ! このような体験、自分には一生縁の無いものと諦めかけていた。そなたたちには本当に、本当に感謝の言葉もない――! 本当に素晴らしい! 自分たちはやったのだ!」
「なにを言っている。今日だけではない。この程度の体験、もう一度、いや、未来永劫に体験させてやる! この私たちが貴様にな!」
「ありがとう! ありがとう!!」
オレは、色々な意味での奇跡と幸福の中、夢のような二対の双丘に挟まれつつ意識を飛ばしていたのだった――。